気とは何か

(第三章)生命とエントロピー

2014年5月2日

エントロピー増大の法則

私が子供の頃、母に「どうして人間には36度の体温があるの?」と聞いたことがありました。この質問に対して母は「それは食べたものが体の中でエネルギーになって燃えているからよ」と答えてくれました。私は子供心に、体の中で火が燃えているんだろうか、エネルギーとは燃えるものなのか、と不思議に思ったのを今でも鮮明に覚えています。

上記の質問に対する答えは熱力学を勉強すれば多分わかるのでしょう。しかし、私は大人になった今でも自分が投げかけた質問に答えられません。そのような私ですが、生命とエントロピー増大の法則(エントロピーとは無秩序さや乱雑さの度合いのこと)の関係から「気とは何か」を考えてみたいと思います。なぜなら、エントロピー増大の法則が、生命とは何かを知る手がかりになり、ひいては「気とは何か」を論理的に定義づけられる根拠になると思ったからです。

お気づきのように、この考えは、物理学者であるE.シュレディンガー氏の著書『生命とは何か』(岩波新書)がベースになっています。この著書の中にある「生物体は負のエントロピーを食べて生きている」という有名な文章に触れて、気というものを私なりに理解できたという経緯があります。

エントロピー増大の法則とは、例えば、熱いお湯と冷たい水を混ぜると、ぬるいお湯になり、ゆるいお湯は再び熱いお湯と冷たい水には分離しません。また、ゴムボールを床の上にトントン跳ねさせると跳ねる高さは次第に低くやり、やがてゴムボールは跳ねなくなりますが、跳ねなくなったゴムボールは外部から力を与えない限り、再びひとりでに跳ねだすことはありません。

生きていない一つの物質系が外界から隔離されるかまたは一様な環境の中におかれているときは、普通はすべての運動がいろいろな種類の摩擦のためにはなはだ急速に止んで静止状態になり、電位差や化学ポテンシャルの差は均されて一様になり、化合物をつくる傾向にあるものは化合物になり、温度は熱伝導により一様になります。

そのあげくは系全体が衰えきって、自力では動けない死んだ物質の塊になります。目に見える現象は何一つ起こらない或る永久に続く状態に到達する訳です。物理学者はこれを熱力学的に平衡状態あるいは、「エントロピー最大」の状態と呼んでいます。(『生命とは何か』より)

このように、すべての物質は、秩序のある状態から無秩序な状態へと変わっていこうとする傾向があり、これを熱力学の第二法則(エントロピー増大の法則)と呼んでいます。

尚、同書によると、エントロピーは数式で表せるもので、エントロピー=klogD だそうです。Kはボルツマン定数(=3.2983 X 10-24cal/℃)で、Dは物体の原子的な無秩序さの程度を示す量だそうです。Dという量は、専門的な術語を使わずに簡単に正確に説明することはほとんど不可能と同書でも言っており、既にチンプンカンプンですので、これ以上の引用は止めます。


生物体はエントロピー増大の法則に従っているか

神秘といって過言でない複雑かつ精密、精緻な構造の生物体も、最後には死んで土になります。長い時間のスパンで考えれば、生物体もエントロピー増大の法則に従っているといえます。しかし、生きているときには、生命がない一塊の物質(例えば体を構成するたんぱく質の塊)が同じような条件の下で「運動を続ける」だろうと期待される期間よりもはるかに長い期間にわたってその「運動」が続けられています。

生物体は、急速に崩壊してもはや自分の力では動けない平衡の状態になることを免れているのです。生物体は、生物体の外部の系より「何か」を取り入れて、生物体という秩序が死という無秩序にならないように(エントロピーが急速に増大しないように)、あるいは生物体という系のエントロピーが常に一定に維持されるようにしている訳です。

生きている生物体は絶えずそのエントロピーを増大しています。-あるいは正の量のエントロピーをつくり出しているともいえます-そしてそのようにして、死の状態を意味するエントロピー最大の危険な状態に近づいてゆく傾向があります(注:人間の約60兆個の細胞の内、3,000~7,000億個の細胞が毎日死んでいることを思い出して下さい)。生物体がそのような状態にならないようにする、すなわち生きているための唯一の方法は、周囲の環境から負エントロピーを絶えずとり入れることです。(『生命とは何か』より)

このことをシュレディンガーは、「生物体は”負のエントロピー”を食べて生きている(It feeds on ‘negative entropy’)」と表現しました。

負エントロピーは、エントロピーに負の符号をつけたものであり、「負のエントロピーを食べて生きている」ということは、負のエントロピーの流れを吸い込んで、自分の身体が生きていることによってつくり出すエントロピーの増加を相殺し、生物体自身を定常的なかなり低いエントロピーの水準に保っていることだとシュレディンガーは説明しています。

では、負のエントロピーは何かという点については、シュレディンガーは、「高等動物の場合には、それらの動物が食料としている秩序の高いものがそれであり、多かれ少なかれ複雑な有機化合物の形をしているきわめて秩序の整った状態の物質が高等動物の食料として役立っている。」と説明しています。


食料は「負のエントロピー」か?

ここからは私の自論です。 まず、人間の物質代謝(あるいは新陳代謝)を整理してみます。人間の体の約60兆個の細胞の内、3,000~7,000億個が毎日死んでいます。すなわち3,000~7,000億個の細胞のエントロピーが増大します。死んだ細胞は便となって体外に排泄されます(便には食べかすだけではなく細胞の死骸も入っています)。増大したエントロピーを外に棄てた訳です。そして新たに3,000~7,000億個の細胞が生まれます。エントロピーの低い(秩序の整った)物質が体内に新たに生まれた訳です。新たに生まれた細胞の原材料は、もちろん食料や空気です。

ここで注意したい点は、細胞の原材料となる食料や空気は秩序の高い物質であり、すなわちエントロピーの低い物質ですが、それは新たに生まれた細胞と同様に「正」のエントロピーが低いのであって、決して「負」のエントロピーではない、ということです。

さらに付け加えますと、食べた食料は、体内で消化という過程を経て、一旦エントロピーが増大します。例えば、食料に含まれるたんぱく質は巨大な分子構造をもった-秩序を構成した-物質ですが、体内に入るとたんぱく質分解酵素によって分子のつながりがバラバラにされ、たんぱく質を構成するアミノ酸まで分解されます。秩序のあるものが分解されるわけですから、エントロピーが増大したと言えます。

呼吸も同じです。空気中の酸素は血液の赤血球の中にあるヘモグロビン分子の鉄原子と反応し、一旦酸化鉄になって体内を循環します。酸化鉄とは鉄が錆びた状態であり、地中に埋蔵されている鉄鉱石と同じです。鉄鉱石は新たな化学反応を起こさずに地中に長年埋蔵されている平衡状態の物質ですので、エントロピーの高い物質です。

以上の様に、人間は確かに秩序の高い物質(食料、空気)を取り入れはしますが、人間の細胞に生まれ変わる前に、体内で一旦エントロピーが増大した物質に変換しているのです。

以上をまとめると下記の様になります。

1)エントロピーの低い物質(食料、空気)を体内に取り入れ、
2)それらを一旦エントロピーの高い物質(アミノ酸、酸化鉄など)に変換し、
3)次にエントロピーの低い物質(人間の細胞)に変換する。
4)やがて細胞は死に(エントロピーが増大し)、増大したエントロピーを
  体外に排出する。

尚、先程説明した通り、食料も空気も「正」のエントロピーであり、上記のプロセスは全て「正」のエントロピーでの世界です。


”負のエントロピー”は何か

上記の様に、人間は、秩序の高い食料を、一旦わざわざエントロピーの高い物質に置き換えています(牛肉を食べて人間の筋肉が牛の筋肉になったら困りますから!)。シュレディンガーは、「一定のかなり高い水準の秩序状態(かなり低いエントロピーの水準)に維持している仕掛けの本質は、実はその環境から秩序というものを絶えず吸い取ることにあります。」と述べていますが、その「吸い取っている秩序」は食料や空気とは別のものではないか、という疑問が出てきます。

たんぱく質で言えば、アミノ酸を人間のたんぱく質に合成する「力」が、アミノ酸の系の外部よりアミノ酸の系の内部に働いて、人間の細胞を構成するたんぱく質を合成していると考えることができます(エントロピー増大の法則は、閉鎖系の中での法則ですので、開放系ではエントロピー増大の法則は適用されません)。

では、アミノ酸の系の外部から働いて人間の細胞を構成するたんぱく質を合成する「力」は、「別のアミノ酸」でしょうか? 「別のアミノ酸」がその力の元であるとすると、「力」として使われる際には、「別のアミノ酸」は、アミノ酸よりもエントロピーが増大した(秩序が低い)エネルギーになって消費されます。 そうであれば、そのエントロピーの増大したエネルギーで、人のたんぱく質という秩序の高い(エントロピーの低い)物質をつくることは無理と思います(※)。

(※食べ物によっては、「生命力を感じる食べ物」というのは確かにありますが、食べ物に宿る生命力については、話が混乱するのでここでは触れないことにします。)

遺伝子はアミノ酸をたんぱく質に合成する設計図です。しかし設計図は「情報」であって「力」はないはずです。人間には約200種類の細胞がありますが、例えば、あるアミノ酸がなぜ胃の種類の細胞になって胃になり、なぜその胃の細胞は、腸の位置ではなくて間違いなく胃のあるべき位置にできるのか、どのように遺伝子情報が制御されているのか、現在の分子生物学では明らかでありません。

上記のように「別のアミノ酸」に遺伝子情報を制御する「力」があるとは考えられませんし、そうであれば結局、制御する「力」とは、体の外から取り入れる、エントロピーにマイナスの符号をつけた「負のエントロピー」以外にないのではないか、ということになります。

もう一度、人間の物質代謝(新陳代謝)のプロセスを細胞が死んで体外に排泄するところから説明します。

  1)細胞が死ぬ。
    = 人間の系のエントロピーが増大する。

  2)死んだ細胞を体外に排泄する。
    = 増大したエントロピーを体外に棄てるので、人間の系の
      エントロピーは減少したように見えるが、細胞を棄てた分だけ
      体の「秩序」がなくなるので、結局エントロピーは増大する。

  3)食料を体内に取り入れて消化し、「人間の細胞の素」をつくる。
    = エントロピーの高い物質を体内に入れるので人間の系の
      エントロピーはさらに増大する。

  4)消化した食料を吸収し、「人間の細胞の素」を体内に巡らす。
    = エントロピーは上記3)と同じレベル。

  5)負のエントロピーを体内に取り入れて、「人間の細胞の素」を
    人間の細胞に合成する。
    = 人間の系のエントロピーは減少し、秩序が回復・維持される。

以上の考え方によって、上記1)の前段階と5)の段階の正のエントロピーの値は等式で結ばれ、シュレディンガーの言う「一定のかなり高い水準の秩序状態(かなり低いエントロピーの水準)」が維持されます。

つまり、「気」とは実は負のエントロピーのことであり、負のエントロピーのことを「気」と呼んでいる、ということです。

病気の体や疲れた体を健康な状態に引き戻す「生命力」という言葉は、エントロピーの水準が高い病気の状態から、健康体というエントロピーの低いところに持っていく力を指すので、「気」とほとんど同じ概念と言えるでしょう。 むしろ生命力のことを気と呼ぶと言った方がわかりやすいかもしれません。

そして、気も生命力も、それらは元々は体内にあるものでなく、体の外部から取り入れているものであることになります。


「健康」という秩序を維持する為には、また病気を治し健康になる為には

「負のエントロピー = 気(生命力)」の考え方を導入することによって、健康という秩序ある状態を維持する為には、また健康でない病気の状態から健康な状態になる為には、どうすれば良いかが明らかになってきます。 下記の3点がエントロピーの水準を低くするポイントとなります。

 -増大した正のエントロピー(毒)を絶えず体外に棄てる
 -体内に取り入れる正のエントロピー(食料)は必要最小限にする
 -負のエントロピー(気、生命力)を絶えず体内に取り入れる

「冷えとり」健康法では、増大したエントロピーを「毒」と表現し、その毒を体外に棄てることを「毒出し(デトックス)」と表現しています。

以上から毒出し(デトックス)の大切さがおわかり頂けると思います。毒とはダイオキシンや重金属だけを指すのではありません。人間が生命活動を続けている限り、常に部分部分ではエントロピーが増大しており、健康(秩序)を維持するためには体内で発生する毒、即ち「壊れた秩序」、を絶えず体外に棄てる必要があるのです。肥満脂肪や腫瘍は、本来体外に排出すべきエントロピーが体の中に溜まって出来たものといえましょう。

そして、新陳代謝を活発化させ毒を積極的に棄てる方法として考案されたのが、絹や綿の5本指ソックスの重ね履きであり、半身浴です。

二番目のポイントは食べ過ぎない、小食にするということです。 この点については別のコラム「よく噛んで食べる」をご参照下さい。

三番目の、負のエントロピーを体内に積極的に入れる方法は、気功であったりヨガであったり瞑想であったり合気道であったり、色々あると思います。 ご自分に合うものを探して行われると良いと思います。

5本指靴下の重ね履きや半身浴によるデトックスは、気を取り入れる助けになっていることも覚えておいてください。

気、生命力(負のエントロピー)をたくさん体内に取り入れた方が体全体のエントロピーの水準が低くなって健康体になります。負のエントロピーを取り入れることによって、また同時に毒を体外に棄てることによって、エントロピーの水準が低くなり、体の秩序が回復して病気が治り、健康体が維持されるという理屈です。

なんとなく「気」という言葉を普段使っていますが、「冷えとり健康法」と小食(かつ、よく噛んで食べる)を実践し、更に「気」も積極的に体内に導入して、病気を治し、健康を増進して頂ければと願っております。(2005/05/14)

(第二章)ナナフシのフシギ

2014年5月2日

ナナフシの生態

ナナフシという昆虫をご存知でしょうか?ナナフシはバッタやカマキリの親戚であり、からだを木の茎や枝に似せて、鳥などの外敵の目を眩ませ身を守る擬態昆虫です。色は緑の枝に似せた緑色や木の枝に似せた茶色をしています。葉っぱに似せたコノハムシもナナフシの仲間です。周りの木の葉や枝に似せることを「隠蔽的擬態」といいますが、ナナフシは隠蔽的擬態以外にも、様々な方法で外敵から身を守っています。

例えば、ちょっと近づいたり、触ったりしただけで葉や枝から地面に落ち、落ちてからしばらくはじっと動かずに敵が去るのをやり過ごしたり、またからだをつかまれても死んだふりをして動かないという「逃避」行動をします。

さらに、からだをゆらゆらと左右に振り、あたかも木の葉や枝と一緒に風に揺られて、自分は非生物だというような「擬態を演じ」たり、一方では、敵が近づくと翅をいきなり広げて体を大きく見せ、また脚や翅でシューシューと音を出すという積極的な「威嚇」行動も起こします。また、「防御」の為に臭いのある白い防御液を胸部から出すナナフシもあり、海外には目が一時的に見えなくなる程の危険な液体を噴射する種もあります。

捕まってしまったときには、自ら脚を切って(自割して)逃げます。「自割」や外傷によって失われた脚や触角は、若い幼虫では、脱皮のたびに少しずつ「再生」します。
プラケースワールドナナフシなんでも百科より)

上記の様にナナフシは種の保存の為に多岐にわたるワザを身につけています(枝が風になびいてゆらゆら揺れるように、からだを自分で揺らすなんて、かなりカシコイワザですね)。

ナナフシも、その他の生物と同様に、38億年の年月をかけて単細胞生物から進化してきた生物ですが、ナナフシが持っている上記のワザは、ダーウィンの進化論が言うように、偶然に発生した変異の中から生まれたワザなのでしょうか?


進化論

ここでちょっと進化論をおさらいします。 尚、進化論ではダーウィンの進化論(『種の起源』1859年)があまりに有名ですが、進化論はダーウィンの説のみではなく、違う進化論も存在します。ダーウィンの進化論とダーウィン以降の進化論を以下に紹介します(フリー百科事典『ウィキペディア』進化論より)。

ダーウィンの進化論では、自然選択(natural selection)、生存競争(struggle for existence)、適者生存(survival of fittest)などの要因によって、常に環境に適応するように種が分岐し、多様な種が生じると説明しました。

ダーウィンの説の需要な部分は、自然淘汰(自然選択)説と呼ばれるものです。これは、以下のような形で説明されました。

・ 生物が持つ性質は、同種であっても固体間に違いがあり、それは親から子に伝えられたものである。

・ 他方、生まれた子のすべてが生存・繁殖することはなく、性質の違いに応じて次世代に子を残す期待値に差が生じる。つまり、有利な性質をもったものがより多くの子を残す。

・ それによって有利な変異を持つ子が生まれ、それが保存されその蓄積によって進化がおこる。

ただし、当時はDNA や遺伝の仕組みについては知られていなかったので、変異や遺伝についてはうまく説明されませんでした。また、進化は進歩とは違うものだと認識し、進化は特定の方向性がない偶然の変異による機械論的なものだとしました。

ダーウィンの進化論が発表された後、生物の進化の方向は全く偶然に生じる突然変異に任せっきりであり、また自然選択に有利な突然変異が常に生じることを前提にしたダーウィンの進化論に対して、生物自身が自分の進化の方向を決めているはずだとの説が再三発表されました。長い時間の中での変化を追うことを研究課題とする古生物学の学者であるアイマーは、化石の記録の推移を見て、生物に内在する力が、環境適応的かどうかとは無関係に、一定方向に進化を起こしているという定向進化説を唱えました。

また、1968年には木村資生によって中立進化説が提唱されました。中立進化説によると、生物にとって有利な変異というのは少なく、有利でも不利でもない中立的な変異の方が多く、それが遺伝的浮動によって偶然広まって進化が起こり、適応的な進化については自然選択が進化の原動力になると考えました。


ではナナフシはどうやって擬態昆虫に進化したのか

ダーウィンの進化論も木村資生の中立進化説も、環境に適応するように変異したものが選択されて生き残るというものです。この理論は、気候の変化に受動的に適応するような場合には当てはまるかもしれません。しかし、ナナフシが擬態昆虫に進化する前の段階では、外敵の鳥に対する「擬態ワザ」を持っていなかったので、いっぱい捕食されて淘汰されかけたでしょう。

しかし、結果的に、外敵に捕食されないように擬態昆虫に進化した、言い換えれば、「擬態昆虫に進化する前の時点(外敵に容易に捕食されるような状態の昆虫)において、「自然選択(自然淘汰)則」「生存競争則」「適者生存則」に逆らうように、生存競争の弱者から擬態昆虫という生存競争の強者へと進化した事実に対しては説明がつきません。

進化前の親(生存競争の弱者)から、枝や葉に擬態した子(生存競争の強者)が種全体にわたっていきなり突然変異で生まれるという事は、いくら突然変異といえども確率としてあり得ないことです。 結果として枝や葉に似た姿になったとしても、それは何世代にもわたって長い時間をかけて、変異に変異を重ねて、次第に枝や葉に似てきたというのが自然な考え方です。

あれだけナナフシの姿が見事に枝や葉に似ているのを見ると、その変異が何世代にもわたる突然変異の偶然の重なりの結果であるとは、直感的にも確率的にも、とてもあり得ない事です。繰り返しますが、枝や葉に似た形に変異する途中段階では、未だ枝や葉に似ていないので、弱者の状態の中での変異に過ぎず、枝や葉への変異が完了するまでは生存競争の強者ではなかったのです。

自然淘汰や生存競争、適者生存という考え方は、淘汰や競争に晒される生物が既に存在して、そこから淘汰や競争が始まることを前提にした概念です。しかし、我々は、全ての生物は38億年前に単細胞から進化したことを既に知っています。上記のダーウィンの進化論や中立進化説は、「淘汰や競争が始まる前に起こった進化」については説明していないのです。

従って、ダーウィン進化論や木村資生の中立進化説のような、適応的な偶然の連続を前提とする進化ではなく、変異には前もって方向性がある(ナナフシの場合には枝や葉に似るという方向性がある)という定向進化説こそが、ナナフシの進化を説明できる、きわめて自然な説という気がします。


では、ここで質問です。

尚、以下の質問は定向進化説に基づく質問なので、ナナフシの進化を定向進化説以外で説明できると思われる読者の方は、その論旨を考えてみて下さい。

質問1 :ナナフシの姿を周りの枝や葉に似せようと一体「誰が」考えたのでしょうか?

<質問1の答えが「ナナフシ自身」だとして>
質問2: ナナフシは「いつ」擬態昆虫になろうと考えたのでしょうか?
質問3: ナナフシが擬態昆虫になろうとした「いきさつ」は何ですか?
質問4: 「なぜ」ナナフシは擬態昆虫になろうとしたのでしょうか?

<質問1の答えが「ナナフシ以外のもの」だとして>
質問5: ナナフシ以外のものとは「誰」でしょうか?
質問6: 質問2、3、4、の主語(ナナフシ)を質問5の回答に置き換えて、同じ質問に答えてください。

読者の方はどう考えられたでしょうか?

まず、「誰が考えたか」という質問ですが、回答は「ナナフシ自身」か、「ナナフシ以外の誰か(何か)」のどちらかしかありません。 「ナナフシ以外」は誰か(何か)というと、ナナフシ以外の生物がナナフシの進化のことを考えることには意味がないので、結局それは「神様(あるいは、何か偉大なもの)」が考えたという回答になります。

しかし、「神様」は何でもできるし、何でもできる全能の存在を神様と呼ぶので、それでは「わからない」という回答から一歩も進みません。 神様を持ち出すとそこで思考が停止してしまいますので、ここでは、「ナナフシ自身が自分の体を擬態しようと考えた」と仮説をたてます。

では、いつナナフシは擬態昆虫になろうと考えたのか、ということですが、擬態昆虫に進化する前の段階で、外敵の鳥に捕食されているときに、「このままでは鳥に食べつくされて、自分達の種が絶滅してしまう」と考え、危機意識を持ったのでしょう。

ただし、自分自身が捕食されて死んでしまっては、危機意識は持続しないので、自分自身ではなく仲間が捕食されているのを見て、知って、認識して、危機意識を持ったのでしょう。危機意識を持ったのは特定の一匹ではないでしょうから、仲間と危機意識を共有していたということができるでしょう。

あるいは、「擬態昆虫になる前のナナフシ」が考えた段階では、外敵の鳥も進化の途上にあって、その時点ではナナフシの敵ではなく、「将来敵になり得る存在」でしかなかったかもしれません。そうすると、擬態昆虫になる前のナナフシは、「あの生き物(将来敵になり得る存在)は、今後進化して、将来は自分達の敵になり得るので、自分達の姿が今のままでは、将来食べつくされて絶滅してしまうかもしれない。」と考えたかもしれません。言うまでもないことですが、ここで言う「食べつくされて絶滅してしまうかもしれない」生き物とは自分自身ではなく、ずっと後の世代の自分達の子孫のことです!自分たちの子孫の為に考えたのです!

以上をまとめると、擬態昆虫になろうと考えたのがナナフシ(の前身)自身であるとの仮説にたてば、ナナフシ(の前身)は;

1.仲間が外敵に捕食されるのを「見て、知って」、外敵が自分達の種を絶滅させるかも しれないという予測を「認知していた」、あるいは;

2.自分達の周りに存在する生き物が、今後進化して、将来自分達の種を絶滅させる生き物になるかもしれない、という予測を「認知していた」、こととなります。


意識が時空を超えて存在するということ

更に、付け加えて強調しなければならないことがあります。それは、上記の認知ないし危機意識は、何世代にもわたって子孫に受け継がれなければ、さらに種全体にわたって、同じ認知・危機意識が受け継がれなければ、種全体が枝や茎や葉の擬態に変異するという方向性は定まらないだろうということです。

擬態への変異は子への一世代で完了するはずはなく、おそらく何万年何十万年、もしかしたら何億年もの年月をかけて変異したはずです。従って、特定の、たとえば「種が絶滅する危機」という、あるいは「自分の体を周辺の枝に似るように変異したい」という、特定の「意識」が何世代にもわたってに受け継がれなければ擬態昆虫に変異しないはずです。

この「意識」を「遺伝子の情報」と読み替えてもかまわないと思います。但し、その遺伝子情報は、進化のどこかの時点で、すなわち単細胞の生物から昆虫の種に進化する過程で、ナナフシ(あるいはナナフシの前身の生物)の遺伝子にプログラミングされなければなりません(どのようにして種全体の遺伝子にプログラミングされたのかは別にして)。

ここまでが質問2( ナナフシはいつ擬態昆虫になろうと考えたか)および質問3(ナナフシが擬態昆虫になろうとしたいきさつは何か)の仮説です。

上記の、質問3に対する回答では、ナナフシが種の絶滅に対する危機意識を持つに至ったいきさつを述べましたが、そのいきさつから、なぜ自分の体を枝や茎や葉に似せた昆虫になることを選択したかについてはまだ論じていません。これを論じることが質問4(なぜナナフシは擬態昆虫になろうとしたか)に対する回答です。

その回答の前提は、ナナフシは、自分の体が周辺の枝や茎や葉の形や動きに似ていれば、外敵の鳥に見つかりにくいという事実を知っていたということです。言い換えれば、ナナフシは、鳥の視点にたって(文字通り”鳥瞰して”)、鳥が木の全体から枝や葉をどのように見ているかを知っていたということです。

ナナフシは、自分の外側から、自分の姿や自分の置かれている状況を客観視できたのです。だからこそ、自分の体を枝や茎や葉の形に似せたり、枝や茎や葉が風に揺れるように自分の体も揺らせば、鳥の目を欺けると判断し、「擬態しよう」と決意(!)した訳です。

人間でさえ、自分は他人からどう見られているか、自分の周りの状況はどのように動いているのか、どこまでわかっているかアヤシイのに、この仮説に立つとナナフシは実に頭の良い生物です。

そして、ナナフシは擬態になることを何世代にも亘って、継続して実行し、実際に自分の体を変異させてきました。体を変異させること自体脅威的なことですが、危機意識から始まって、擬態が外敵から身を守る手段であると認識し、擬態しようと決意した意識を何世代にも亘って持続したことも、全く脅威的なことに他ありません。

上述の後半の部分は、仮説に基づいた論旨なので偏見が混っているかもしれませんが、要は、ナナフシの種全体にわたって、時間的にも空間的にも、共通の意識が存在するということを前提にしなければ、ナナフシの進化を説明できない、ということです。

以上、ナナフシを例にして生物が持つ意識について考えてきましたが、ナナフシよりも高等動物である人類にも当然に、時空を超えた共通の意識が、家系、地域社会、民族、国家、人種、全人類などの集団の中で形成されているに違いないことは、容易に想像できるのではないかと思います。

また、ナナフシがある時点で擬態しようと決意した意識が、ナナフシの種全体に時空を超えて共有されていったように、人類の意識に重大な影響を及ぼす出来事がおこると、影響を受けたその意識は、時空を超えて人類の「意識の共有ファイル」の中にどんどん蓄積されていき、人類の進化に影響を及ぼしていくのだ、想像力をたくましくしてしまします。

(第一章)物質としての生物体

2014年5月2日

人間の体は何から出来ているか

ここに、ひまわりの種が一粒あり、その重さを1gと仮定します。この種を土に植えると、成長して夏には大きな花を咲かせます。大きく育ったひまわりの全体の重さを例えば1kg(1,000g)とすると、最初の種の重さ1gが1,000gに増えた訳ですが、増えた999gはどこから来たのでしょうか。

もちろん、ひまわりの根を通して地球上の土の成分や水を吸い取って大きくなったのであり、言い換えれば、ひまわりの系の中に999gが取り込まれ、ひまわり以外の系の質量が999g減った訳です。熱力学の第一法則に基づき、エネルギー(質量)の総和は一定で保存されるからです。

やがて秋になると、ひまわりの花びらや茎や葉は枯れ落ちて「土」に戻ります。即ち、植物を構成している(種1g以外の)999gの物質は、植物になったり、土や水になったりを繰り返していると言えます。

人間の場合はどうでしょうか。人間は1gもない受精卵から始まって、食物を摂りながら成長し、成人になると50-70kgの体重になります。人間の体も、無から有が生じる訳ではないので、外部の系から食物(質量)を摂り入れて体重が増えていきます。

人間が食べる食物は植物であったり動物であったりしますが、食物になる動物も食物連鎖をたどれば最終的には植物をエサにしているので、先程説明したように植物を構成する物質は「土と水」に由来する故、結局人間の50-70kgの体重を構成する物質は、間接的に全て「土と水」に由来していると言えます。

従って、50-70kgの人間が出来上がると、地球上の「土と水」が50-60kg分減るという言い方ができます。そして、人間は死ぬと慣用句の通り「土になり」ます。人間の体を構成する物質も植物と同じく土と水に由来しており、人間になったり、土や水になったりを繰り返している訳です。

人間(動物)は植物と違って、土と直接つながっておらず、土から離れた「動く物(動物)」ですが、生物体としての動物と植物の違いは、その生物体が土と直接繋がっているかどうかという点に過ぎないと言えるでしょうか。


レンタルの思想

アストロバイオロジーという言葉があります。これは、松井孝典氏が提唱しているもので、我々はどこから来てどこへ行くのか、我々は宇宙で孤独な存在か、というテーマを150億年と150億光年の時空のスケールで考えて、21世紀の知の体系を整理しようとする学問です。

同氏は著書(『宇宙人としての生き方』岩波新書)の中で、人間が作り上げた“人間圏”を悪い方向に持っていかないようにするにはどうすればよいか、という課題に対して、レンタルの思想という考え方を提唱しています。人間の欲望を満たす為に人間圏を拡大してきたのが文明の歴史ですが、今後、生活の豊かさということを考える上で、物の所有について考え直す必要があると提言しています。

つまり、豊かさを実現していく上では、実際には物(の所有)を必要としているのでなく、物の機能を必要としているのでないか。 それならば、レンタルという格好で機能を使い、物としては返すという思想で人間圏を考えていけばどうか、というものですが、このレンタルの思想の提言の中に、人間のからだについて味わい深い文章がありますので以下にご紹介します。

「我々の存在そのものも実はレンタルです。我々は自分のからだを自分の所有物だと思っています。しかし、これは物としては地球から借りているにすぎません。死ねば地球に返るだけのことです。借りたものから、各種の臓器をつくり、臓器の機能を使って我々は生きている。その機能を使うということが、生きるためには重要なことであって、からだそのものが物として意味があるわけではありません。地球から材料をレンタルして我々は自分のからだをつくり、その機能を使って生きているだけのことです。」


新陳代謝

上記の「人間のからだは、物として地球から借りている」という説明について、一点補足しておきたいことがあります。それは、一旦地球からからだの材料を借りれば、その材料は死ぬまで借りっ放しという意味ではない、ということです。人間は生きている間、絶えず新陳代謝を行っています。新陳代謝とは、古くなった体細胞が捨てられ、体外から摂り入れた物質を基にして作られた新しい細胞と入れ替わることです。

人間の成人の細胞の数は約60兆個あり、毎日3,000億個から7,000億個(!)の古くなった細胞は死んで、新しい細胞と入れ替わっているといわれています。3,000~7,000億個とは60兆個の百分の一前後ですが、一ヶ月で体全体の細胞の約三分の一が新しい細胞と入れ替わる計算になります。一説には、新陳代謝のサイクルは、肌は28日、心臓は22日、胃腸は5日、筋肉・肝臓は60日、骨は90日といわれています。

毎日食事を摂って新しい細胞が生まれ、古くなった細胞は、老廃物として垢や尿、便として体外に排出されています。つまり、死んだ時には、地球から借りていたからだの材料の全てを地球に返しますが、生きている間も絶えず地球から材料をレンタルしたり、返したりを繰り返している訳です。人間の一生にわたる生命活動というのは、5日間から90日間の「短期レンタル」の連続で成り立っているという言う方ができるでしょうか。

からだの材料は地球からレンタルしているので、レンタルしたものは返さなくてはなりせん。しかし、返却を怠ると、からだの中に古い細胞が滞って肥満になったり、場合によっては古い細胞が腫瘍に変化したりしてからだに変調をきたします。

従って、私は、この「借りる(食べる)」と「返す(老廃物を体外に出す)」の両方のバランスをとって、健康体という秩序を保つのが生物体の本来の生命活動ではないかと思っています(「健康体という秩序」については、第三章でもう一度取り上げます)。

「生きるため食べる」という考え方は間違ってはいませんが、食べるだけでなく、地球から借りたものはタイムリーに地球に返す=老廃物は体外に出すという認識も、正しい生命観を形成する上で大切な概念だと思っています。 呼吸も、「大気のレンタル」というレンタルの思想に含まれるでしょう。

(序章)気とは何か?

2014年5月2日

気について

21世紀に生きる我々は、昔の人が持ち得なかった生命観を描くことが可能になりました。即ち、我々は、宇宙について、また人体(生命)について、昔と比べものにならない程の深い知の体系を持つに至っています。

約150億年前にビックバンが起こり、そこから宇宙が始まりました。現在とは、宇宙が始まったビックバンから150億年後の「今」であり、また宇宙の空間には150億光年の広さがあり、地球はその150億光年の空間の中に浮かんでいます。

宇宙に「始まり」があるのですから、生命にも「始まり」があります。宇宙や生命に始まりがあることがわかったのは、1920年代の後半のことです。つまり、今一緒に暮らしている70才台、80才台のおじいさん、おばあさんが生まれた当時の話です。150億年、150億光年という時空のスケールで宇宙や生命をイメージできるようになったのは“最近の”話です。

ちなみに、太陽系ができたのは今から46億年前であり、地球の誕生は44-45億年前、それから地球の海の中で生命が誕生したのは38億年前と言われています。宇宙が始まってからかなりの時間がたって、地球上に生命が誕生したと言えます。さらに、海の中の生命が大陸の上に進出したのが5億年前であり、生物が進化を遂げ、ヒトが類人猿から分化し、人類としての歴史が始まったのが、約800万年前と言われています。

人類は自然の中で食物を獲得して生き延びて来たわけですが、農耕を開始した、即ち人類が自然に生えている草や木を刈りとって自然環境を畑に「改造」して、食料を自分で生産し始めたのは今から1万年前と言われています。言い換えれば、人類の文明の歴史は約1万年という訳です。この1万年という文明の歴史は、150億年の宇宙のスケールや38億年の地球上の生命のスケールから見ると、さらに陸上に始まった生命の5億年のスケールから見ても、実にほんのわずかな時間です。

また、分子生物学(分子遺伝学)が発達し、生物の基本設計は遺伝子にあって、その遺伝子の本体は、アデニン(A)、チミン(T)、グアニン(G)、シトシン(C)の、4種類の塩基の内の3種類の組合せを一単位とする情報の配列からなるDNAであり、DNAという「デジタル情報」と2重らせん構造によって、遺伝子のコピーが可能なものであることがわかったのは、20世紀の中盤です。

ヒトを形作る設計図となる全DNAの塩基単位数は30億個であることもわかりました。30億とは膨大な数字ですが、無限ではない有限の、数を数えることができるデジタル情報です。この30億の塩基配列は、コンピュータを使い、2003年4月14日に全てが解読されました。クローン羊「ドリー」が誕生したとの報道は1997年ですが、つい最近の事のように思えます。分子生物学を応用した再生医療の実用化も目の前です。

また、コンピュータとコンピュータを利用した情報ネットワークの進展には目をみはるものがあります。私は、コンピュータの発達も、生命観の形成に影響を与える一要素になっていると思います。

第一には、コンピュータはハードとソフトから構成されており、ハードとソフトが一体になってはじめて機能を発揮するということです(「コンピュータ、ソフトなければただの箱」とはずいぶん昔のフレーズの気がしますが、的を射ています)。私が言いたいのは、コンピュータのモデル、即ちハード(体)とソフト(心)という組合せが、生命とは何かを考える素材になったということです。人間を似せたロボットと人間自身との差は一体何なのかという問題を21世紀の人類は突きつけられています。

第二には、コンピュータの発達によって、コンピュータグラフィック(CG)が精巧にかつリアルに描けるようになったことです。これまで言葉で表現するには複雑であった概念が、視覚で理解できるようになりました。もともと人類は言語を持っているおかげで抽象的思考ができるようになりましたが、言語に加えてCGという新しい表現伝達手段を手に入れたことによって、更に抽象的思考が容易に、かつ深くできるようになったと思います。

第三には、インターネットの発展です。昨今の正に急激なインターネットの発展によって、我々が持ち得る情報量の多さと、個人間の情報のネットワーク構築の容易性は、情報に新たな「質」を生んでいると思います。即ち、インターネットによって個人の主張を発信しやすくなり、会社や団体の組織・共同体としての意思のみならず、個人の意思を他者に容易に伝えられるようになりました。それだけ、個々人の多様性が強調されるようになったと言えます。一方では、他者の主張も受信しやすくなり、しかもリアルタイムに近い短時間のうちに、多数の人間が同一の情報を受信できるようになりました。それにより、情報の共有化、言い換えれば人間が持つ思考・思想・概念の均質化が進んでいると思います。多様化と均質化が同時並行的に進み、この情報の量と質の変化が、人間が描く生命感に影響を与えていると思います。

人類は道具を発明して、自分の手の延長を獲得しました、また乗り物を発明し足の延長を獲得し、望遠鏡によって目の延長を、電話の発明で口・耳の延長を獲得しました。そして、コンピュータの発明によって遂に脳の延長を手に入れました。更に、コンピュータネットワークの発達によって、計算という脳の機能のみならず、「思考」の延長を手に入れたとも言えるでしょう。


「気」を説明するということ

上述の様に、宇宙や生命の成り立ちについては、真相の解明が急速に進んでいます。しかしその反面では、身近に感じているはずの「気」については、科学的な解明が進んでおらず、例えば気功治療で体の痛みがとれたという様な、気に関連する現象のみが話題にされがちです。

なぜ痛みがとれる現象が起こるのかということについて、論理的に解明しようということが、ほとんどなされていなかったのではないでしょうか。気功治療でなぜ体の痛みがとれるのか、という質問を例にすれば、質問している側は気とは何かを知りたくて聞いているのに、治療家側は「これが気功だ」という、回答になっていない回答をしているのでないでしょうか。

また、気は生命エネルギーだという言い方もあります。間違いではないのでしょうが、それでは生命エネルギーとは何なのかについての説明がないので、わかったような、わからないような説明です。結局何でも「気のせい」にしてきたような「気」がします。

一般的に、「気」というものを、神秘的なものや超能力あるいは特殊能力として捉え、また、気(気功)を扱う人を特殊な人間扱いにして、日常生活からかけ離れた別世界のものと見がちです。気を扱う側の人達も、一部の人はどちらかというと、気は特殊なものであると他人に説明して、自分自身を、マーケティング上差別化・神秘化して売り込んでいるようにも思えます。

しかし、私は、気は超能力でも特殊なものでもなく、人間を含む生物が生命体として当然に持っている(あるいは当然に外部から受け入れている)「何か」であると考えています。

そもそも日本語には「気」という字があり、「気」を使う熟語や言い回しが数多くあります。日常の会話の中でも当たり前の様に「気」という言葉を使っています。 例えば熟語では、「大気」(地球をとりまく空気の全体)、「元気」(活動のみなもととなるもの)、「気質」(人にあらわれるもの、気性)、「気風」(集団や同じ地域の人々が共通に持っているとみられる気質)があります(白川静著『常用字解』平凡社)。

言い回しでは、ちょっと「気をつけて」考えると、「気が合う」「気に入る」「気にくわない」「気を配る」「気が重い」等の言葉があるのに「気がつき」ます。また、合気道など日本の武道の目的は、気の鍛錬であるとも言われています。この様に、本来我々にとって、特に日本人にとって、本来「気」は特別のものではないはずです。あまりにも当たり前過ぎて、あらためて「気」と言われると身構えてしまうのかもしれません。

21世紀の知の体系は、昔に比べて飛躍的に進化しています。既に我々は、宇宙や生命の成り立ちについて、たくさんの知識を持っており、これらの知識をデータベースに、「生きるとは何か」「我々とは何か」という哲学的テーマについて、かつての大哲学者でさえ考え得なかった思索を行うことが可能です。

もちろん、現実には、私は、自分が「わかっていること」よりも、「“わからないということを知っている”こと」や「“わからないということを知っている”ことさえわからずに通り過ごしていること」の方が圧倒的に多いことを認識しています。しかし、しり込みしないで、今私が持っている知識のデータベースを基に、出来る限り論理的に“気とは何か”を考えてみようと思います。

第一章では、物質としての生物体について考えてみます。敢えて物心二元論の立場で物質としての生物体を考えてみますが、意外と面白い生命観を描けることに気づきます。

第二章では、ナナフシという、木の枝や葉に自分の体を似せて外敵から身を守る擬態昆虫を素材に、生物の進化の不思議を考えてみます。ここでは、第一章とは逆に、「意識」に焦点を当てて生物体を考えます。

第三章では、エントロピー増大の法則という熱力学の第二法則を基に「生命体とは何か」を考えて、「気」の正体に迫りたいと思います。生物体にとってエントロピーが増大していった最終点は「死」ですが、死の反対の「生きる」ことの表現として、量子物理学者のシュレディンガーの著書(『生命とは何か』岩波新書)の中に、「人間は負のエントロピーを食べて生きている」という有名な言葉があります。私はここに「気」の本質を捉える鍵があると思っています。

(第一章)物質としての生物体に進む